第二巻 ドイツ哲学革命の先駆者。スピノザとレッシング

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 この第二巻の内容 第一巻で私は宗教上の大革命について述べた。この革命はドイツではマルチン・ルターが代表しているのである。さてこれから哲学上の革命について述べなければならぬ。この哲学革命はさきの宗教革命から生じたものであり、まさにドイツ新教よりおこったさいごの結果にほかならなぬものである。

 ところでこの哲学革命がイマヌエル・カントによってばくはつした次第をものがたるまえに、まずドイツ以外の国での哲学上の事件、スピノザ哲学の意味、ライプニッツ哲学の運命、このライプニッツ哲学と宗教との相互関係、この両者の不和、争いなどについてどうしても述べなければならない。けれどもわれわれは、哲学上のいろんな問題のうちでも、社会的意味をもつような問題、それを解決するために哲学と宗教とが競争している問題にとくにたえず注目することにしよう。

 その問題というのは神の性質についての問題である。「神こそすべてのちえの始まりであり、おわりである」と信者らはつつましく云う。すると哲学者はおのれの知識をほこりながらも、この信心ぶかい格言に同意しなければならないというありさまだ。

 現代哲学の父はデカルトである 現代哲学の父はふつうに説かれているようにベーコンではなくて、ルネ・デカルトである。さて、ドイツ哲学がどの程度までこのデカルトに由来しているかということを、十分はっきり示すことにしよう。

 デカルトはオランダでその哲学を大成した ルネ・デカルトはフランス人である。それで哲学史でも、改革をはじめてとなえたという名誉は偉大なるフランスにあたえられるわけである。けれどもこの偉大なフランスは、さわがしくて、はげしくうごいて、おしゃべりばかりしているフランス人の国は、哲学が成長するにてきとうな土地ではなかった。哲学はこの国ではさかえることはおそらくあるまい。こうしたことをルネ・デカルトは感ずいたのでオランダへ移っていった。それはオランダ人が住んでいて、運河には曳き舟がうかんでいるしずかな、だまりこんだ国である。その国でデカルトは自分の哲学的な考察をした。このオランダにいたからこそデカルトは自分の精神を伝統的な形式的な考え方から解放して、思考そのものからまとまった哲学の仕組をつくりあげることができたのだ。その哲学の仕組というのは、デカルト以後のすべての真の哲学が要求している通りの、信仰からも経験からも借りものをしない仕組なのである。またこのオランダにいたからこそデカルトは思考のおくそこにまで没入して、自我の意識のどんぞこにいる思考そのものをつかまえて、まさにこうした操作によって自我の意識をあの世界的に有名な原理で鑑定することができたのだ。つまり「我思うゆえに我あり」というのである。

 デカルトはスコラ哲学に対立して哲学の自主性を確立した そしてまたオランダ以外の国ではデカルトは、過去のあらゆる伝統ときわめてろこつに戦う哲学をあえて説くことはできなかったろう。哲学の自主性を確立したというほまれはデカルトにあたえられるべきである。哲学はもはや、考えてもいいというおゆるしを神学から乞いもとめる必要はなくなった。哲学は今や独立した学問として神学とならび立つことができるようになった。私は「神学とならび立つ」と云ったが、「神学と対立する」とは云わなかった。というのはそのころにはまだ次のような原理があまねくみとめられていたからである。つまりわれわれが哲学によって到達する真理はけっきょく、宗教がわれわれにあたえてくれる真理と一致するというのである。ところがスコラ哲学者はこれに反して、私がさきにのべたように哲学を支配する権利を宗教にみとめただけではなくて、哲学が宗教の教義と矛盾しはじめるやいなや、哲学をくだらんあそびだ、言葉尻をひねくる仕事にすぎないとののしりさえもした。スコラ哲学者はどんな条件つきでも、とにかく自分の思っていることを話しさえしたら、それでまんぞくしていた。スコラ哲学者は「一かける一は一」だといって、それを証明する。けれどもほほえみながらつけ加えてこう云うのだ。「だがこれは人間の理性がおかしたひとつのまちがいだ。人間の理性といえども、万国司教会議の決議と矛盾するようなことをいうなら、まちがっている。『一かける一は三』というのが、ほんとの真理だ。これこそ父なる神とむすこのイエス・キリストと聖霊との御名において三位一体としてとっくのむかしにわれわれに示された真理なんだ。」スコラ哲学者はひそかに教会にたいして哲学的な反対派をつくっていた。けれどもおもてむきは教会にこのうえもなく服従しているように見せかけて、多くの場合には教会のために戦い、行列のときには教会のしっぽについていばってあるいた。それはフランスの王政復古のおまつりさわぎのときに、政府反対派の議員がとったのとまったくおなじ態度である。スコラ哲学者のこの喜劇は六百年以上もつづけて上演されて、しだいにくだらんものになってしまった。デカルトがスコラ哲学をぶちこわしたのは、時効にかかってしまった中世の教会反対派をぶちこわしたことになる。スコラ哲学というふるびた箒(ほうき)はながらくつかっているうちに、さきがすり切れてしまった。その箒にはあまりにほこりがつきすぎた。新しい時代には新しい箒が入用だ。革命が成功したら、これまでの政府反対派は引退しなければならぬ。もしも引退しないと、おそろしくばかげたことがいろいろと起るだろう。これはわれわれの体験してきたことだ。とにかく、そのころデカルトの哲学にたいしてまっさきに立って反対したのはカトリック教会ではなくて、むしろこの教会の積年の仇敵だった時代おくれのスコラ哲学者たちであった。ローマ法王がこのデカルト哲学を禁止したのはようやく一六六三年のことであった。

 デカルト哲学から派生したふたつの学説 フランス人の諸君はその偉大な同国人デカルトの哲学については十分ゆたかな知識を持っておられることだろう。私はここで、ふたつのまったく相対立する学説がこのデカルト哲学から必要な材料を借りだした次第を今さら説明しなくてもいいだろう。このふたつのまったく相対立する学説というのは観念論と唯物論とのことである。

 さて、ことにフランスではこの二つの学説つまり観念論と唯物論とは唯心論と感覚主義という名でよばれている。ところが私はこの唯心論と感覚主義という言葉をこれまでフランス人とはちがった意味で用いてきた(本訳書四九ページ参照)。だから私はここで概念の混乱をさけるために観念論と唯物論という言葉をくわしく説明しなければならぬ。

 唯物論の本質 太古から人間の思考の本質について、心の認識作用のさいごの根底についてつまり観念の成立についてふたつのあい対立する意見が存在していた。一方の意見ではこうだ。人間は外界からののみ観念を得る。人間の心はまったく白紙の状態なのであって、そこで感覚をつうじてはいってきた表象が、ちょうど胃におさまったたべもののように消化されるというのである。こうした意見を主張する人びとはもっとうまいたとえを用いて、人間の心を白紙のようだという。その白紙にまい日の経験がきまった書き方にしたがって何かあたらしいことを書きしるすというのである。

 観念論の本質 これとあい対立する意見ではこうだ。観念は人間にうまれつきそなわっている。人間の心こそ観念の本来の住居である。外界や経験や、経験のなかだちとなる感覚は、人間の心のなかにもとから住んでいたものを認識させるにすぎない。つまり人間の心のうちでねむっていた観念をよびさますだけだというのである。

 感覚主義と唯心論、唯物論と観念論という言葉の用法について フランスではこのさいしょの意見は感覚主義、ときには経験論とよばれている。第二の意見は唯心論、ときにはまた合理主義とよばれている。ところが私が本書でのべたように、このふたつの名まえ、つまり感覚主義と唯心論という名はしばらくまえから、あらゆる生活現象にあてはまるふたつの社会原理のよび名にも用いられるようになったので、いろんな誤解がおこりやすくなってきた。それゆえに、自分だけがほめられたいとねがって、肉をふみにじるか、すくなくともはずかしめようとするたましいのらんぼうな思いあがった意向に唯心論という名をあたえることにしよう。そしてこれとは反対の意向を感覚主義とよぶことにしよう。つまりこのたましいの横暴にはげしく反対し、肉の権利をとりもどそうとめざして、たましいの権利やたましいの主権を否定しようとはしないけれども、すくなくとも肉の権利を回復しようとする意向である。そして人間の認識作用の本質についてのふたつのちがった哲学上の意見に観念論と唯物論という名まえをあたえたい。つまり人間はうまれつき観念がそなわっている、観念は経験以前のものだという学説を観念論とよび、心は経験と感覚によってのみ認識作用をおこなう、観念は経験以後のものだという学説を唯物論とよぶことにしたいのである。

 フランスではデカルト哲学から唯物論が発達した。その始祖はロックである デカルト哲学のうちにある観念論的な傾向がフランスではけっしてさかえなかったというのは意味ふかいことである。二、三の有名なジャンセン主義者がしばらくのあいだはこの方向にむかって努力していたが、まもなく道にまよってキリスト教的な唯心論者になってしまった。フランスで観念論哲学が信用をなくしてしまったのは、おそらく次のような事情によるのであろう。人民は自分の使命をはたすために必要なものを本能的に感ずくものだ。そのころのフランス人民は、一八世紀のすえにようやくばく発したあの政治革命への道をすすんでいた。その政治革命をやるためには斧が、そして斧におとらず冷酷な唯物論哲学が必要であった。キリスト教的唯心論はフランス人民の敵の仲間になっていた。それゆえに感覚主義が当然フランス人民の戦友となったのである。ところでフランスの感覚主義者はふつう唯物論者であったので、感覚主義は唯物論からのみ成立するというまちがった意見が生じた。いや、そうではない。感覚主義は汎神論の結果としてあらわれてくる場合もあるのだ。そして、この汎神論からあらわれた感覚主義のすがたはすばらしくりっぱである。私はフランス唯物論のたてたいろんな手柄を否定するのではない。フランス唯物論は過去のわざわいにたいしてよく利く解毒剤であり、助かる見込のない病人につかう、さいごのいちかばちかの薬であり、梅毒にかかったフランス人に用いた水銀剤であった。そしてフランスの哲学者がえらびだして師とあおいだのはジョン・ロックである。ジョン・ロックこそフランス哲学者の求めていた救世主であった。ロックの著書「人間悟性論」はフランス哲学者の福音書となった。この書の内容は真理である、とフランスの哲学者はかたく信じたのである。ジョン・ロックはデカルトの弟子になった。そしてデカルトからイギリス人としてまなべることは、力学も化学も、組みあわせたり、組み立てたり、計算したりすることも何もかもならいおぼえた。けれども、イギリス人のジョン・ロックにはただひとつだけどうしてもわからんことがあった。つまり、観念が人間にうまれつきそなわっているということである。そこでロックは、人間は外部からの経験によってのみ認識にいたるという学説を完成した。ロックは人間の心を一種のぜにばこにしてしまった。人間そのものがイギリス流の機械になってしまった。そして、このことはロックの弟子たちがくみ立ててつくった人間にもあてはまる。もっとも、その弟子たちは自分の学説にいろいろちがった名まえをつけて、たがいに区別しあおうとしているのである。その弟子たちは自分らの学説の最高の根本原理からひとりでに出てくる結論をひとしくおそれていた。コンディヤックの仲間は、自分らがエルヴェシウスや、ホールバハや、いやそれどころかおしまいにはラ・メトリーと同じ組にいれられたとき、ぞっとした。けれども、やはりおなじ組にいれられなければならぬのである。それゆえに、私は一八世紀のフランスの哲学者と今日のその後輩を全体としても、また個人的にも唯物論者とよんでもよかろう。ラ・メトリーの「人間機械論」はフランス哲学からさいごに当然うまれでるべき本であった。そしてこの本の名前がすでに、フランス哲学の世界観そのものの結論を云いあらわしている。

 機械的唯物論は超越神論を取るということ これらの唯物論者は大ていは超越神論の信奉者であった。というのは人間という機械ができるためには技師つまり神がまずいなければならないからである。そしてこの人間という機械がこの技師つまり神の技術的知識を人間自身の構造について、また神のその他の作品についてたしかめてうやまうことができるというのは、この人間という機械がこのうえもなく完全にできているからなのである。

 唯物論とイギリス、ドイツでの革命 唯物論はフランスではその使命をはたした。そして今やイギリスでもおそらくおなじ仕事をなしとげるだろう。イギリスの革命党、ことに功利主義を説くベンサム主義者はジョン・ロックの学説をきそとしている。ベンサム主義者はジョン・ブルつまりイギリス人をうごかすためのてこを正しくつかんだ巨人である。ジョン・ブルはうまれながらの唯物論者だ。ジョン・ブルがキリスト教的唯心論をまもっているというのは大ていは先祖代々そう見せかけているためか、あるいはそろばん勘定にふけったあまりに頭がかたくなったためだろう。――ジョン・ブルの肉はたましいが助けにきてくれんので、役立たずになりかけている。ところがドイツでは事情がちがう。ドイツの革命家は、唯物論哲学が革命をおこなうために好便だろうと思ったら、大まちがいだ。ドイツでは革命の原理がもっと民族的な、もっと宗教的な、そしてもっとドイツ的な哲学からみちびき出され、この哲学の威力によって支配的にならないかぎりは、全般的な革命はけっしておこりえないのである。さて、それはどんな哲学か? それについてはのちにあけすけに述べることにしよう。「あけすけに」と私は云った。というのはドイツ人もこの本をよむことを私は期待しているからである。

 ライプニッツはデカルト哲学の観念論的傾向を展開し、ドイツ人の哲学探求の心を向上させた。 ドイツにはむかしから唯物論をきらう傾向があらわれていた。それゆえに、ドイツは百五十年ものあいだ、観念論哲学が活やくする舞台になった。ドイツ人もデカルトの弟子になった。そしてドイツ人のうちでデカルトの高弟となったのはゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツである。ロックはデカルト先生の唯物論的傾向を探求したが、ライプニッツは観念論的傾向を探求した。それでライプニッツ哲学には、観念は人間にうまれながらにそなわっているという学説がきわめてはっきりとあらわれている。ライプニッツはその著「人間悟性新論」でロックをうちやぶろうとした。ライプニッツがあらわれてから、ドイツ人のあいだには哲学を研究しようというはげしい熱意がもえあがった。ライプニッツは人びとの心をねむりからよびさまして、あたらしい進路へとみちびきいれた。ライプニッツの著書にはおだやかなやさしさがひそんでいるために、またその著書は宗教的な意向で活気づけられているために、ライプニッツに反対した人たちもこの著書の大たんな思想と多少は和解するようになった。それでライプニッツの著書のあたえたえいきょうは甚大なものだった。

 ライブニッツのモナド説 ライプニッツの大たんな思想はことにそのモナド説にあらわれている。このモナド説は、これまでに哲学者が考えだしたもっともめずらしい仮説のひとつである。しかしこの仮説は同時にまた、ライプニッツのあたえてくれた最良のものである。というのは現代のドイツ哲学が認識したもっとも重要な法則がはやくもこの仮説でほのかに認識されているからである。モナド説は、今日のドイツの自然哲学者がもっとりっぱな形式でのべているあの鉄則をぶさいくな形であらわしたものにすぎない。私はここで元来、「法則」という言葉のかわりに「公式」という言葉をつかうべきだろう。というのはニュートンがまったく正しく云っているように、われわれが自然法則とよんでいるものはほんとうはそんさいしていないのであって、ただ一くみの自然現象を説明する場合にわれわれの理解を助けてくれる公式だけが存在しているからである。

 ライプニッツの「弁神論」 ドイツではライプニッツのすべての著作のうちでもことに「弁神論」がもっとも議論されている。けれどもこれは彼の著作中で、もっともたよりないものである。この「弁神論」には他の二、三の著作と同じくライプニッツの宗教心があらわれている。ところがライプニッツはこの「弁神論」のためにときにはいじわるく中傷され、ときにはひどく誤解されることになった。反対者からは呑気きわまるばか者だと非難されたし、かばってくれる味方からもずるい偽善者と云われたりしたのである。

 ライプニッツ哲学の特徴は「調和」にある ライプニッツの性質はドイツではながらくのあいだ論争のたねになっていた。もっとも公平な論者でも、「あいまいだ」という非難からライプニッツをすくうことはできなかった。ライプニッツをもっともひどくののしったのは自由主義者と啓もう主義者であった。この人びとは、神とイエス・キリストと聖霊との三位一体、永久の地獄の刑罰、キリストが神であることなどを弁護したライプニッツをどうしてゆるしておけようか? 自由主義者の寛容にもかぎりがあったのである。けれどもライプニッツはばかでも、悪党でもなかった。彼はその調和のとれた高い立場からキリスト教そのものを大そうたくみに弁護したのである。私はここで「キリスト教そのもの」という言葉をつかった。というのはライプニッツは中途はんぱのキリスト教にたいして「キリスト教そのもの」を弁護したからである。つまりキリスト教正統派のてっていした論理をその反対派のあいまいな論理とくらべて見せたのであった。ライプニッツはそれ以上のことをやろうとはしなかった。そこでライプニッツは、種々さまざまの哲学の仕組がたがいにうちけしあって同一の真理のさまざまの面となっている中和点をしめることになった。こうした中和点をそののちにシェリング氏もみとめた。そしてヘーゲルがこの中和点を「いろんな哲学の仕組をまとめた仕組」として科学的にきそづけたのである。ライプニッツはこれとおなじ仕方でプラトンとアリストテレスとを調和させようとした。その後の時代にもプラトンとアリストテレスとの調和という問題はずいぶん何度もドイツ哲学にあらわれてきた。さて、この問題は解決されたか?

 観念論者プラトンと唯物論者アリストテレス いや、たしかに解決されてはいない。というのはこの問題はほかならぬ観念論と唯物論との闘争を仲裁することだからである。プラトンはてってい的な観念論者である。プラトンは人間にうまれながらにそなわっている観念、いやむしろ人間がうまれたときにもってきた観念しか認めない。人間はこの世へ観念をもってうまれてくる。人間がその観念を自覚するときには、その観念は前生の自分についての思い出となってあらわれてくるというのだ。だからプラトンにはぼんやりとした神秘的なところがある。プラトンの思い出は多少ともぼやけている。ところがアリストテレスではこれに反してすべてがはっきりとあざやかでたしかである。というのはアリストテレスの認識は前生と関係してアリストテレスのうちにあらわれてくるのではない。アリストテレスはむしろすべてのものを経験のうちからくみとり、そのすべてのものをきわめてはっきりと分類することができたからである。それゆえにアリストテレスは今にいたるまですべての経験論者の手本となっている。経験論者は次のことで神をいくらほめたたえてもほめすぎるということはあるまい。つまり神がアレクサンデル大王の師匠にしたということ。アリストテレスはアレクサンデル大王の征服事業によって科学を発達させる多くの機会を得たということ。および勝ちほこったアレクサンデル大王が師匠のアリストテレスに動物学を研究するためにばく大なぜにを出したということである。アリストテレス老先生はこのもらったぜにをまじめに使った。つまりそのぜにでおそろしくたくさんの哺乳動物をふわけしたり、たくさんの鳥を剥製にしたりして、きわめて重要な動物学的観察をおこなったのである。けれども自分のすぐ目のまえにいて、自分がそだてあげて、そのころの全世界の動物中でもっともめずらしかった偉大な動物だけはアリストテレス大先生は残念ながら見のがして、研究しないでほっておいた。たしかに、アリストテレスは青年王アレクサンデルの性質についてはわれわれになんの知識もあたえてくれない。この青年王の生涯と行動とをわれわれは今もなお不思議な謎としてあきれて見まもるばかりである。アレクサンデル大王とは何者だったか? この大王は何をやろうとしたか? この大王は狂人か、神か? 今もなおわれわれは分らない。そのかわりにアリストテレスはバビロンの尾長猿やインドのおうむやギリシャ悲劇についてはわれわれにいっそうりっぱな知識をあたえてくれる。アリストテレス大先生はギリシャ悲劇も動物とおなじようにふわけしたのだ。

 キリスト教におけるプラトン型とアリストテレス型との闘争 プラトンとアリストテレス! これはたんにふたつの哲学の仕組ではなくて、ふたつのちがった人間性の型である。このふたつの型は考えられぬほどとおい昔から、いろんなよそおいをして多少ともにらみあってきたのだ。ことに中世をつうじて今日にいたるまでこのふたつの型ははげしく戦いあってきた。そしてこの闘争がキリスト教会史のもっとも根本的な内容となっている。名まえはいろいろちがっていても、つまりはプラトンとアリストテレスが問題の中心となっていた。熱狂的な神秘的なプラトン的な性質の人はその心のおくそこからキリスト教の根本思想とその思想にふさわしいシンボルとを啓示した。実際的な整理好きのアリストテレス的な性質の人はそのキリスト教の根本思想とシンボルとからしっかりとした仕組を、つまり教義と礼拝とをくみ立てた。教会はついにこのふたつの型を抱きこんだ。そして一方のアリストテレス型は大てい教会に、他方のプラトン型は修道院に陣どって、たえずいがみあっている。ドイツ新教でもこれとおなじ闘争が見られた。それは敬虔主義者と正統派との争いである。この両者はカトリック教の神秘主義者と教義学者とに多少、似ている。つまり新教の敬虔主義者は空想力のとぼしい神秘主義者であるし、新教の正統派は知力のとぼしい教義学者である。

 この新教のふたつの党派はライプニッツの時代にはげしくあらそいあっていた。ライプニッツ哲学はのちにこの争いを仲裁した。つまりクリスチャン・ウォルフがライプニッツ哲学を会得して、この哲学を時代の要求にかなうようにつくりかえて、それをドイツ語で発表したのだ。このドイツ語で発表したというのがもっとも重大な事である。けれどもこのライプニッツの弟子ウォルフについて、このウォルフの努力の結果について、またルターのはじめたドイツ新教のその後の運命についてくわしい報告をするまえに、神意によって生れたひとりの男について述べなければならぬ。その男はロックやライプニッツと同時にデカルトの弟子となって修養し、ながらくのあいだ唯あなどりとにくしみの目で見られていたが、今日のドイツでは思想界の唯一の支配者となった男である。

 その男とはベネディクト・スピノザのことである。

 スピノザの著書の特徴 偉大な天才は他の偉大な天才によってできあがる。けれどもそれは同化によってではなくて、摩擦によってできあがるのだ。ダイヤモンドはほかのダイヤモンドをみがいてりっぱにするだけだ。そういうわけでデカルト哲学はスピノザ哲学をけっしてうみ出したのではなくて、ただおし進めただけである。それゆえにまず弟子のスピノザはデカルトとおなじように数学から借りてきた証明法を用いている。これは大したマイナスだ。数学的な形式をかりているためにスピノザ哲学はかたくるしいようすをしている。けれどもこれははだんきょうのかたい皮とおなじだ。皮がかたいだけに、なかみはいっそううまいのだ。スピノザの著書をよむと、生気にあふれてしずまりかえっている大自然を見るような感じがする。それは天をつく偉大な思想の森だ。その森の木の花のこずえは波うってさわいでいるが、その森の木のゆるぎない幹は永遠の大地にしっかりと根をはっている。スピノザの著書には、説明できない一種のいぶきが流れている。未来の風に吹きつけられる思いがする。ヘブライの預言者の精神がこののちの世の子孫にもやどっていたのであろう。それとともにまたスピノザにはあるまじめさが、みずからを信じるほこりが、思想の威厳が見いだされる。これもまた先祖からうけついだものらしい。というのはスピノザは、カトリック教をぜったい的に信ずる国王にそのころスペインから追放された殉教者の家族のひとりであったからである。そのうえにスピノザにはオランダ人らしい辛抱づよさがある。これまたスピノザの生活にも著書にもつつみきれずにあらわれているものである。

 スピノザの生涯が彼の遠縁にあたる神の子イエス・キリストの生涯とおなじようにまったく非難するところなく、きよらかで、けがれないものであったというのはたしかなことである。またスピノザはキリストとおなじように自説をまもるためにくるしみ、キリストとおなじようにいばらの冠をかぶった。偉大な人物が自己の思想を述べるところにはかならずゴルガタがあるのである。

 スピノザはユダヤ教会から破門された 親愛なる読者よ! もし君がアムステルダムへいかれたならば、そこの名所案内人にスペイン風のユダヤ教会へつれていってもらいたまえ。それはりっぱな建物だ。屋根は四本の巨大な円柱のうえにのっかっている。教会のまんなかに説教壇がある。その説教壇でむかし、モーゼの戒律をかろんじたイーダルゴ・ドン・ベネディクト・デ・スピノザに破門が云いわたされた。そのときにヘブライ語でショファルとよばれている牡山羊のつのでつくったつの笛が吹かれた。このつの笛にはおそろしいいわくがあるらしい。というのは私はサロモン・マイモンの伝記のなかでつぎのような話をよんだことがある。アールトナのユダヤ人の律法博士があるとき、カントの弟子になってしまったサロモン・マイモンにもとのユダヤの信仰にもどるようにすすめた。ところがマイモンはその異端の哲学をがんこにまもって捨てようとしなかったので、ついにその律法博士はおどしつけようとして、ショファルを見せつけながら、いんきくさい声でたずねた。「これが何だか知っているか?」ところがカントの弟子がおちつきはらって「それは山羊のつのでつくったつのぶえです」とこたえたので、その律法博士はどぎもをぬかれてゆかにあおむけにひっくりかえったというのである。

 スピノザの破門のときにはこのつの笛が吹かれた。スピノザはおごそかにイスラエルの仲間から追放されて、今後はユダヤ人となのるねうちはないものと云いわたされた。スピノザの敵であったキリスト教徒はそれでもまだ寛大であって、スピノザがユダヤ人となのるのをゆるしていた。けれども超越神論の親衛隊であるユダヤ人はなさけ用捨もなかった。アムステルダムのあのスペイン風のユダヤ教会のまえの広場を見たまえ。あの広場でむかしユダヤ人たちがあのながいあいくちでスピノザを刺したのだ。

 私はこの男のこうした個人的な不幸をとくにあげ示さないではおれなかった。スピノザをきたえあげたのは学問だけではなくて、生活でもあったのだから。これがスピノザと大ていの哲学者とのちがう点である。スピノザの著書には生活からの間接のえいきょうがみとめられる。スピノザには神学はたんなる学問ではなかった。政治学もそうだ。政治学もスピノザはじっさい生活からまなんだ。スピノザの愛人の父は政治犯人としてオランダでしばり首になった。オランダほどむごいしばり首の刑罰をおこなうところはほかにはないだろう。読者諸君には想像もつかないだろうが、オランダではしばり首にするまえにいろんな用意や儀式がいつまでもつづくのだ。それで罪人はしばり首になるまえに、たいくつしきって死にそうになる。また見物人はたっぷりひまがあるのでいろんなことをとくと思案してみることになる。それで私は確信している。愛人の父ファン・エンデ老人が処刑されるのを見ていたベネディクト・スピノザはこの処刑についていろいろ思いめぐらしたにちがいないと。そしてスピノザはなわで首をしめる政治の正体をつかんだ。それはまえにあいくちで刺す宗教の正体をつかんだのとまったくおなじである。それは彼の著書「政治論」をよめば分ることだ。

 スピノザはデカルトの三男である 私は哲学者たちがたがいに多少とも血縁の関係にある事情だけははっきりと示しておきたい。つまり哲学者たちがどういう血すじをひいて、どのていどまでたがいに血のつながりがあるか、ということだけは読者に示しておきたいのだ。さてスピノザはルネ・デカルトの三男である。そしてこの三男がその主著「倫理学」で述べている哲学は長男のロックの唯物論ともまた次男のライプニッツの観念論とも大そうちがっている。スピノザは人間の認識作用のさいごの根拠は何かという問題を苦労して分析しようとはしなかった。スピノザはわれわれに、神についてりっぱな、まとまった説明をあたえてくれる。

 スピノザの汎神論の核心 ベネディクト・スピノザはこう説く。ただひとつの実体がある。それは神である。この唯一の実体は無限であり、ぜったい的である。すべての有限の物はこの実体からわかれてでてくる。それらのものはこの実体のうちにふくまれていて、この実体のうちに出没する。それらのものはただ相対的な、一時的な、偶然的な存在にすぎない。このぜったい的な実体はわれわれ人間には無限の思考という形式と無限の延長という形式であらわれてくる。このふたつ、つまり無限の思考と無限の延長とはぜったい的な実体のふたつの属性である。われわれ人間はただこのふたつの属性しか認識することができない。神つまりぜったい的な実体はおそらく、われわれ人間には認識できないなお多くの属性をもっているだろう。「私は神をすっかり認識していると云うのではない。けれども私は神の属性を探求する。もちろんそのすべての属性あるいは大部分の属性を知ることはできないのだけれども。」

 この学説を「無神論だ」と云えたのはわけのわからん連中か、いじのわるい人たちだけである。神についてスピノザほど気だかい意見をのべたものはこれまでになかった。「スピノザは神を否定した」と云うよりは、むしろ「人間を否定した」と云うべきだろう。すべての有限の物はスピノザによれば無限の実体のあらわれる形式にすぎない。人間の肉体は神の無限の延長の一原子にすぎない。神こそ人間の心とからだとの無限の原因であり、「うみいだす自然」である。

 スピノザ哲学とシェリングの同一哲学。このふたつは根本的におなじものだ ヴォルテールはデュ・デ・ファ夫人にあてたある手紙で、この貴婦人ののべたある思いつきにすっかり有頂天になっている。この貴婦人はこう云ったのだ。「人間にはどうしても知ることができないものというのはきっと、知っても人間には役に立たないようなものばかりでしょう。」デュ・デファ夫人のこの言葉は、私がさきにスピノザ自身の言葉を引用して紹介したあの原理にもあてはまるようだ。つまり神は思考と延長というわれわれ人間の認識できるふたつの属性のほかにも、きっとわれわれには認識できない他の属性もいろいろそなえているという原理である。けれどもわれわれ人間に認識できないものは、われわれには何の価値もない。すくなくとも、心で認識したものをからだで表現しなければならない人間の社会では何の価値もないのだ。だからわれわれは神の正体を説明する場合に、われわれの認識できるあのふたつの属性だけを考えるのである。ところでわれわれが神の属性とよんでいるものはつまりは、われわれが神を見る見方の形式である。そしてこの形式は相互にどんなにちがっていても、神つまりぜったい的な実体そのものの中では同一である。思考はつまりは目に見えない延長にすぎないし、延長は目に見える思考にすぎない。この点でわれわれはドイツの同一哲学の根本原理にぶつかるわけだ。同一哲学は根本的に見てスピノザの学説とすこしもちがっていない。シェリング氏は私のこの意見にいきりたって反対してこう云うだろう。おれの哲学はスピノザ哲学とはちがう。おれの哲学ではむしろ「理想と現実とが生きいきと浸透しあっている。」おれの哲学とスピノザ哲学とは「しゃちほこばったエジプトの彫刻とそれをまねて完成したギリシャの彫刻像とがちがうように」はっきりちがっていると。けれども私はきっぱりと云いきらないではおれぬ。シェリング氏はその初期の時代には、すくなくともまだ哲学者であった時代にはスピノザとはちがった道をとおって同じ哲学にたどりついたのだ。これについては私はのちに説明しよう。つまりカントがあたらしい道にふみこみ、フィヒテがカントのあとをしたい、シェリング氏もフィヒテの足あとをたどっていくうちに自然哲学という森のやみ路をさまよいぬいて、ついにその森のはずれでスピノザのりっぱな立像と対面したという話をものがたるつもりでいるのだ。

 スピノザの「思考と延長」は神のうちでは同一である ドイツの自然哲学は最近ただひとつ手がらをたてた。つまり両極にある精神と物質とは永遠の相で見れば一致していることをきわめてするどく証明したのである。私はここで「精神と物質」という言葉を用いた。このふたつの言葉をスピノザのいわゆる「思考と延長」とまったくおなじ意味でもちいたのである。この「精神と物質」はドイツの自然哲学者のいわゆる「精神と自然」あるいは「理想と現実」ともいわば同意語だろう。

 汎神論の神と超越神論の神 そういうわけだから私はスピノザ哲学の仕組よりはむしろその考え方を汎神論とよぶことにしよう。汎神論でも超越神論でもまとまった神をみとめている。けれども汎神論者のいわゆる神は世界そのもののなかにいる。超越神論者のいわゆる神のようにその神性をそとから世界にしみこませているのではない。超越神論者セント・アウグスティヌスはむかし、神を大きなみずうみにたとえ、世界をそのみずうみのまんなかにうかんで神性を吸いこむ大きな海綿にたとえてこの超越神論を分りやすく説明しようとした。汎神論の世界は神性にひたり、神性で飽和しているだけではなくて、神そのものである。スピノザが実体と呼び、ドイツの現在の哲学者が絶対者とよんでいる「神」は、「この世にげんにあるすべてのもの」である。それは物質であり、精神である。精神も物質もひとしく神である。神である物質をはずかしめる者は、神である精神にそむく者とおなじ罪をおかすことになる。

 このふたつの神の差異 だから汎神論の神と超越神論の神とはつぎの点で区別される。つまり前者は世界そのもののなかにいるが、後者は世界のまったくそとに、云いかえると世界を超越しているのである。超越神論の神は上から世界を、自分から分れてできたひとつの施設として支配している。ただしその支配の仕方については超越神論者の意見はいろいろとちがっている。たとえばヘブライ人はこの超精神をやかましくどなりつける暴君だと思っていた。キリスト教徒はやさしい父おやだと思っている。そしてルソーの弟子のジェネバ学派のものはのこらず、この超精神を、自分らの父が時計をつくるようにこの世界をつくりあげたかしこい技師だと思っている。そして通人らしくこのつくられた世界をながめては感心して、天にいる技師をほめたたえているのだ。

 超越神論者であるユダヤ人は肉を軽視した だから世界のそとにいるか、あるいは世界を超越している神をみとめている超越神論者にはたましいだけがとおといものになる。というのは超越神論者はたましいをいわば神のいぶきと見なしているからだ。世界を作った神は、手ずから粘土をこねあげてつくった人間のからだに自分のいきを吹きこんでたましいをいれたのだ。それゆえにユダヤ人は肉体をつまらないものと見なした。ヘブライ語の「ルーアヒ・ハコーダッシュ」、つまり「神のいぶき」であるたましいのみじめなおおいと見なした。そしてこのたましいだけにていねいにつかえ、おそれうやまい、礼拝をささげたのである。それでユダヤ人は文字どおり精神的な民族になってしまった。きよらかな、ひかえ目な、まじめな、観念的な、かたくなな、そして殉教にたえうる民族である。この民族から咲きでたきわめて気だかい花がイエス・キリストである。イエス・キリストはほんとうに文字どおりたましいの化身である。肉体のまじわりをせぬきよらかなおとめがたましいだけでキリストをみごもって生んだというあのうつくしい宗教伝説はまことに意味ふかいものである。

 キリスト教は肉を罪悪視した。ヨーロッパでのその結果 ところでユダヤ人は肉体をかろんじていただけであるが、キリスト教徒はこのユダヤ人の道をさらにつきすすんで、肉体を非難すべきもの、わるいもの、いや、わざわいそのものと見なすようになった。そこでキリストが生れてから二、三百年もたつとある宗教がおこってきたのが見られる。その宗教は永久に人類をびっくりさせて、ごく後世の者にまできわめてすごいおどろきを強いるであろう。そうだ、それは偉大な、神聖な、かぎりない至福にみちた宗教であって、たましいにこの世でぜったい的な支配権をあたえようとした。――けれどもこの宗教はこの世ではあまりに気だかく、あまりにきよらかで、あまりにりっぱすぎたので、その宗教の根本思想は理論としては宣言することができても、じっさいにおこなうことはけっしてできなかった。その根本思想を実行しようという試みから、歴史上かぎりなく多くのすばらしい事件がおこった。どの時代の詩人もそれらの事件をこれから先もながらく歌ったり語ったりすることだろう。けれども、このキリスト教の根本思想を実行しようという試みは、われわれのすでに見たように、きわめてむざんな失敗におわった。そしてこの不幸な試みのために人類はかぞえられないほど多くのぎせいをはらってきた。そのぎせいのかなしい結果が今日のヨーロッパぜんたいの不幸な社会状態である。多くの人が信じているように現代はまだ人類の青春時代かも知れない。もしそうだとしたら、キリスト教というのは、分別よりも感情をあまりにも重んじすぎる。思いつめた、いわば「青春の客気」のひとつかも知れない。キリスト教は世俗的な物質は世俗の皇帝とその皇帝のおつきの下男のユダヤ人の手にまかしてしまった。そして、皇帝の至上の権利を否定し、そのおつきのユダヤ人を世論ではずかしめるだけでまんぞくしていた。――ところが見たまえ! そのきらわれていた皇帝の剣とあなどられていたユダヤ人のぜにとがついに至上権をにぎって、たましいの代表者たちは皇帝やその下男のユダヤ人と妥協しなければならなくなったのだ。いやそれどころか、この妥協は連帯責任の同盟にまでなってしまった。ローマ帝国だけではなくてイギリスでもプロシャでも、どこでも特権をあたえられた牧師はすべて皇帝やその下男と同盟をむすんで人民をよく圧してきた。けれども、この同盟をむすんだために、唯心論の立場にたったこの宗教はいっそう速くほろびるだろう。二、三の牧師ははやくもこのことを見ぬいて、この宗教を救おうとして、あの危険な同盟をあきらめたように見せかけている。それらの牧師はわれわれ革命党の陣営へかけこんできて、赤い帽子をかぶり、「すべての国王、あの七人の吸血鬼はにくい奴だ、死んでしまえ」と口ぎたなくののしり、地上の財産の平等を要求し、マラーやロベスピエールにおとらずどなりたてている。――けれども、これはうちわでのはなしだが、そういう牧師のやることをとくと見ていたら、君たちにもわかるはずだ。これらの牧師はジャコバン党の言葉で供養の経文をよみあげているのだ。坊主らはむかしはローマ皇帝に聖餐のパンにくるんで毒をのましたものだが、今では人民に革命という毒にくるんで聖餐のパンをくわせようとしている。革命という毒がわれわれ人民の大好物であることをよく知っているからだ。

 現代の課題は肉の権利をとりもどすことだ けれども、これらの牧師の努力はまったくむだだ! 人類はキリストの肉といわれる聖餐のパンなどにはあきはてている。人類はもっとほんとのたべ物が、ほんもののパンやりっぱな肉がほしくてたまらないのだ。人類はいま、どんなにほねおっても実現できなかったあの青春時代の理想を思いやりふかくほほえみながら回想している。人類はようやく実さい的な大人になりかけているのだ。人類はいまや、じっさいこの世で役にたつ仕組を信じ、ゆうふくな市民社会の制度、道理にかなった家計、老後の安楽などをまじめに考えはじめた。たしかに、「剣は皇帝の手に、ぜには皇帝の下男の手にまかしておけ」というようなことはもう云わなくなった。国王の職務に特権としてみとめられていた名誉はうばいとられてしまった。人類のいまさしあたりなすべきことは、健康をとりもどすことである。というのはわれわれの手足はまだ大そうよわまっているように感じられるからだ。中世のあのとおとい吸血鬼がわれわれの生き血をたっぷり吸いとったのだ。そのつぎに人類のなすべきことは物質、つまり肉にたくさんのつぐないのぎせいをささげることである。そうすれば物質はむかしからうけた恥辱をゆるしてくれるだろう。そのうえ祝祭の余興をやって、物質につぐないとなるなお多くの特別の名誉をあたえるのは、かしこいことである。というのはキリスト教は物質をほろぼすことはできなかったので、それをいたるところではずかしめた。もっともけだかいたのしみを下品なものだとおとしめた。そこで感能のよろこびはよぎなくうわべをとりつくろって、いつわりや罪がうまれたのである。われわれは我らの妻にあたらしい下着とあたらしい思想とをきせてやらなければならぬ。ペストがなおったあとのように我らのすべての感情を蒸気で十分に消毒しなければならぬ。

 だから、これからのあたらしい社会制度の第一の目的は物質つまり肉にもとの権利をとりもどしてやること、物質にもとの品位をあたえてやること、物質を道徳的に承認し、宗教的に神聖なものとし、物質を精神つまりたましいと和解させることである。プールウシャをプラークリイトとふたたび結婚させるのだ。インドの神話で大そう意味ふかく述べられているように、このふたりがむりに分けられたために世界のひどい分裂が、あのわざわいがおこったのだ。

 悪とは唯心論のうみだしたものだ さて諸君、この世の悪とは何か知っていますか? 唯心論者はいつもわれわれを非難してこう云う。汎神論の立場をとれば善悪の区別がなくなってしまうじゃないかと。ところが、悪というものは一部分は、唯心論者自身の世界観から生じた妄想にすぎないし、また一部分は唯心論者自身のつくった世界制度からおこるじっさいの結果である。唯心論者の世界観によれば、物質つまり肉はそれ自身悪であると云われる。しかし、これはたしかに物質への中傷であり、神をひどくけがすことである。さて物質は次のような場合には悪となる。つまり物質が、精神つまりたましいの横領した地位にたいしてひそかにむほんを企てなければならなくなった場合、あるいは精神にはずかしめられたので、みずからをかろんじて身売りしてしまった場合、あるいはまた精神がにくくてたまらなくなって仕かえしをした場合である。だから悪は唯心論者のつくった世界制度から当然おこるひとつの結果にすぎないのだ。

 汎神論のいわゆる「神と世界」 神は世界そのものである。神は植物として公然あらわれる。植物とは意識をもたないで宇宙のうちに磁石のようなうごかぬ生き方をしているものである。神は動物として公然あらわれる。動物とは感能だけのゆめ見るような生活をして、自分の存在していることを多少なりともぼんやり感じているものである。けれども神は人間として、もっともみごとに公然とあらわれる。人間とは感じると同時に考えることができるし、個人としての自分を客観的なそとの自然と区別することができるし、現象界にあらわれてくる観念を自分の理性のうちに持っていることもできるものなのである。神は人間に自覚される。そして、この自覚が人間によって表現されるのである。けれども、この神の自覚とその自覚の表現とは個々の人間ではなく人類全体においてなされる。だから個々の人間は神である宇宙の一部分しか自覚して表現しないのであって、人類ぜんたいがあつまってはじめて、神である宇宙そのものを理想的にも現実的にも自覚して表現することになる。各民族にはおそらく次のような使命があたえられているのであろう。つまり神である宇宙の一部分だけを認識して表現し、一くみの現象を理解し、一くみの観念を表現し、その認識と表現との努力の結果を、似たような使命をもつ次代の民族につたえるということである。それゆえに神が世界史の本来の主役である。世界史は神のふだんの思考、ふだんの行動、上の言葉、そして神の行為である。そして全人類は神の化身であると云ってもまちがいではない。

 この汎神論という宗教は人間を冷淡なものにしてしまうというのはまちがった意見である。いやむしろその反対に人間は自分が神であることを自覚したら、その自覚を表現しようとふるい立つだろう。そして、そのときこそはじめて真の英雄たちの真に偉大な行為がこの地球をりっぱなものにするだろう。

 フランスの機械論的唯物論とドイツの汎神論との相違する点 フランス唯物論の原理を基礎とする政治革命にたいして汎神論者はけっして敵対するものではなくて、むしろその味方である。しかもこの味方はフランス唯物論よりももっと深い泉から、宗教的な綜合からその確信をくみとっているのである。われわれは肉の幸福を、諸国民の物質的幸福をおし進めようとする。というのはわれわれは唯物論者のように精神、つまりたましいをあなどらないで、次のことを知っているからである。つまり、人間である神は人間のからだとなってもあらわれるということ。不幸な状態は神の姿であるからだをうちこわすかはずかしめるかするので、たましいもそのためにだめになってしまうということである。サン・ジェストが述べたあの革命の偉大な標語「パンは人民の権利である」というのは、われわれ汎神論者から云えば「パンは人間である神の権利である」ということになる。われわれは人民の人権のために戦うのではなくて、神としての人間の権利のために戦う。この点およびその他の若干の点で、われわれドイツ人はフランスの革命家とは区別される。われわれはフランス大革命のときの過激共和党員になろうとはしない。われわれは質素な市民や給料のやすい議長になろうとはしない。われわれは同じようにりっぱで、同じようにとおとくて、同じように幸福な神々の民主主義国家を建設しようとするのだ。君たちフランス人は質素な身なり、ひかえ目なならわし、香味のはいっていない食べ物などを求めている。ところがわれわれドイツ人は神ののむ酒、神の食べ物、緋のマント、とおとい香料、肉のよろこび、はでな見せもの、水妖の愉快なおどり、音楽や喜劇などを求めているのだ。――みさお正しいフランスの共和党員諸君! 私がこうしたことを云ったからといって怒らないでくれたまえ。検閲官にきびしい君たちの非難にたいして、私はシェークスピアの戯曲のなかのあの道化者の言葉をかりて答えよう。「おぬしは自分の行いがまっすぐだからというので、この世にうまい菓子やぶどう酒がないと思うとるのか?」

 ドイツでは汎神論は公然の秘密になっている サン・シモン主義者がこうした汎神論の立場を多少とも理解して、それを実現しようとした。けれどもサン・シモン主義は不便な土地で成長した。まわりをりまく唯物論者にすくなくとも、しばらくのあいだはおさえつけられてしまっていた。サン・シモン主義はフランスよりはむしろドイツでより正しく評価されている。というのはドイツこそ汎神論のもっとも栄えやすい土地であるからである。汎神論はドイツのもっとも偉大な思想家、もっともすぐれた芸術家のいだいている宗教である。超越神論はドイツでは理論的にはとっくのむかしにつぶれてしまっている。これについては私はのちにくわしく話すことにする。超越神論はドイツでは多くの他の思想と同じように、理性によるうらづけはまったくされないで、無思想な人民大衆のあいだにどうにかのこっているだけだ。こうした事情は口にだしては云わないが、だれでも知っていることだ。つまり汎神論はドイツでは公然の秘密になっている。たしかに、われわれドイツ人は超越神論からぬけ出すほど成長してきた。われわれは自由人であるから、やかましくどなりつける暴君などはいらない。またいっぱしの大人になったのだから、父おやらしいやさしい世話などはしてもらわなくてもいい。またんんはえらい技師のつくった機械ではないのだ。超越神論とは下男や子供やジェネバの時計工のための宗教なのである。

 スピノザの敵ヤコービ 汎神論は今やドイツでは秘密の宗教になってしまった。しかし、こうなるだろということは、すでに五十年まえにスピノザ哲学をはげしく攻撃したドイツの著述家たちは見ぬいていた。このスピノザ哲学の敵のうちでももっとも猛烈だったのはフリートリヒ・ハインリヒ・ヤコービであった。ヤコービは時どきはドイツの哲学者のうちにかぞえられるという名誉をえた。けれどもじつはけんか好きの卑怯者にすぎなかった。つまり哲学というマントに身をつつんで、ほんものの哲学者のあいだにしのびこみ、その哲学者たちにはじめは自分の愛情ややさしい心づかいをすすり泣くようなこえで広告しておいて、しまいには理性を大ごえどくさすという男である。この男がいつもくりかえしたきまり文句はこうだ。「哲学、つまり理性による認識というのはまったくの妄想だ。理性は自分のいく方向を知らないのだ。人間は理性にたよっておれば、まちがいと矛盾だらけのくらい迷路へつれこまれる。人間をたしかに正しくみちぶいてくれるのは信仰だけだ」ヤコービのむぐらもちめ! ヤコービには分らなかった。理性は永久に空にある太陽とおなじだということが。理性も太陽もしっかりとおのれの道を進みながら、その道をおのれの光でいつもあかるく照らしているのである。小人のヤコービが偉大なスピノザにたいしていだいていた信心ぶかい、感傷的なにくしみは、日の目をみないむぐらもちの気持ちにたとえるほかないだろう。

 スピノザ哲学の敵はいろいろとたくさんあった さまざまの党派がスピノザと戦っているありさまはまことに見ものである。これらの党派は大軍団となっている。その軍団の混成ぶりはこのうえもなくこっけいなようすである。黒や白の頭巾をかぶった一むれが十字架をふりまわし、香炉のけむりをたてておし進むのとならんで、百科全書派の密集方陣が「あの大たんな思想家」をやっつけようとうごめいている。アムステルダムのユダヤ教会の律法博士がユダヤ教のしるしであるあの山羊のつのぶえを吹いて攻撃の合図をしているかと思えば、そのとなりではアルウェー・ド・ヴォルテールが超越神論をまもるためにスピノザ哲学をからかうよこ笛を吹いている。そのあいだにまじって、この十字軍の酒保女であるヤコービばあさんが泣きわめいている。

 こうしたばかさわぎからはなるべく早くぬけだすことにしよう。汎神論についての脱線からあともどりして、ライプニッツ哲学とこの哲学のその後の運命についてものがたることにしよう。

 哲学の用語としてのドイツ語。ヨハネス・タウラー 諸君もご存じのようにライプニッツはその著作を一部はラテン語で一部はフランス語で書いた。このライプニッツの思想をまとめただけではなくて、ドイツ語で紹介したすぐれた男はクリスチァン・ヴォルフという名まえであった。ヴォルフの本来の手柄はライプニッツの思想をまとめてひとつのしっかりした仕組にしたことではなく、またその思想をドイツ語で紹介して多くの人びとに近づきやすくしたことでもなおさらなかった。ヴォルフの手柄はわれわれドイツ人にドイツ語で哲学的に思考するようにしげきをあたえたことである。われわれドイツ人はルター以前は神学をラテン語で研究していたし、ヴォルフ以前は哲学をやはりラテン語で研究するより仕方がなかった。すでにそれ以前に二、三の人たちが哲学や神学をドイツ語で述べる例を示したが、そうしたこころみはなんの効果もなかった。けれども文学史家はこの少数の人びとを思いだして、とくべつにほめなければなるまい。それゆえに私はここでことにヨハネス・タウラーのことを話すことにしよう。ヨハネス・タウラーは一四世紀のはじめにライン河畔でうまれて、一三六一年にやはりライン河畔の、おそらくはシュトラースブルクで死んだドミニック派の修道僧である。タウラーは信心ぶかい男で、私がさきに中世のプラトン党とよんだあの神秘主義者のひとりである。この男は晩年には学者としてのうぬぼれはすっかりすててしまって、はずかしげもなくつつましやかなドイツ語で説教しはじめた。このドイツ語の説教の草稿および、まえにラテン語でやった説教の二、三をドイツ語にほんやくして紹介したものが、ドイツ語の歴史上もっとも注目すべき記念物のひとつとなっている。というのはこれらの草稿ではやくも、ドイツ語は形而上学的な研究に役立つだけではなくて、ラテン語よりもいっそうてきとうであることが示されているからである。ローマ人の言葉であったラテン語はどんなにして見てもその素性をかくしきれない。ラテン語とは将軍が号令したり、代官が指令をだしたり、高利貸が法廷で云いあらそったり、石のようにがんこなローマ市民の墓碑銘にきざんだりするにふさわしい言語である。ラテン語は唯物論にふさわしい言語となった。キリスト教はこのラテン語を唯心論的なものにしようと千年以上ものあいだ、ほんとうにキリスト教らしいしんぼうづよい苦労をつづけてきた。けれどもその努力はついにむだだった。ヨハネス・タウラーが身の毛もよだつ思考のおくそこに没入しようとしたときに、タウラーの胸がきよらかな神の思いでふくらんだとき、タウラーはドイツ語でかたらなければならなかった。タウラーの言葉は、かたい岩のあいだからほとばしり出る山の泉に似ている。そのなかには、ひとに知られぬ薬草のかおりとふかしぎな石の力とがめずらしく浸みこんでいる。けれどもドイツ語が哲学に役立つということがほんとうにはっきりとしてきたのはごく最近のことだ。自然はそのきわめてひみつのわざを、なつかしいわがドイツ語よりほかの言葉ではあらわすことができなかったのだろう。とおといやどり木はかたいかしわの木にしかさかえることができなかった。

 パラツェルズスと自然哲学 ここでおそらくパラツェルズスあるいはテオフラーツス・パラツェルズス・ボムバースッス・フォン・ホーエンハイムと自称する人物についても語らねばならないだろう。というのはこのパラツェルズスも大ていの著書をドイツ語でかいたからだ。けれども私はのちにもっと重大な問題についてこの男をひきあいに出すことだろう。というのはこのパラツェルズスの哲学は、今日のドイツのいわゆる自然哲学とまったくおなじであったからだ。自然哲学、つまり自然はある精神力に生気をあたえられているという学説はふしぎにドイツ人の心にかなうものである。そしてこの自然哲学は、もしも世界を生命のない機械と見なすデカルト派の物理学が偶然に影響して思想界ぜんたいを支配しなかったとしたならば、はやくもパラツェルズスの時代にドイツで完成していたことだろう。パラツェルズスは大やま師だった。いつもまっかな上衣をき、まっかなズボンとあかいくつ下とをはき、あかいつばつきの帽子をかぶって、小人をつくることができるといばっていた。とにかく水火地風などいろんな原素のなかにひそんでいるひみつの力と懇意にしていた。――けれどもパラツェルズスは同時にまた、あの深刻きわまる自然探求者のひとりでもあった。つまりドイツ人らしい研究心でキリスト教以前のドイツの民間信仰、あるいはゲルマン的な汎神論をはっきりと理解し、まだ知られない物をきわめて正しく予想していたあの偉人らのひとりである。

 接神術者、ヤーコブ・ベーメ ヤーコブ・ベーメについても本来ならばここで述べなければならないだろう。というのはベーメも哲学の説明にドイツ語を用いたし、そのために大そうほめられているからである。けれども私はまだこの男の著書をよむ決心がつかないでいる。というのは私はばかにされたくないからだ。この神秘主義者ベーメをほめる人たちのいうことをきいていると、聴衆をごまかそうとするようなところが感じられるのだ。この男の著作の内容については、たしかにサン・マルタンがそのうちの二、三のものをフランス語にほん訳しているはずである。またイギリス人もベーメの著書を英語にほんやくした。イギリスのチャールス一世はこの靴屋の接神術者を大そうえらい者だと思ったので、ひとりの学者をわざわざベーメのいたゲールリツへおくって、ベーメについて勉強させた。この学者はご主人の王さまよりも運がよかった。つまりチャールス一世はホワイトホールでクロンウェルの斧によって首をきられたが、この学者はゲールリツでヤーコブ・ベーメの接神術のおかげでまたもな分別をなくしただけですんだのである。

 ヴォルフはライプニッツ哲学を改悪した さて前にものべたようにクリスチァン・ヴォルフがドイツ語を哲学に用いてはじめて成功した。しかしヴォルフがライプニッツの思想をまとまったものに仕組んで世間へひろめたというのはほとんど手柄にはならない。いや、かえってヴォルフはこうしたことをしたというので、ひどく非難されている。このへんの事情についてついでに述べておこう。ヴォルフがライプニッツ哲学をまとめたというのは見せかけだけのことだった。しかもライプニッツ哲学のいちばん大切な部分、たとえばあのモナド説のいちばんりっぱな部分はこの見せかけだけの仕組のために台なしになってしまった。ライプニッツはもちろんまとまった学説ではなくて、ただそうした学説をくみたてるに必要な根本思想をのこしただけである。巨人がごく深い地下の大理石層からとりだしてきて、のみできれいにけずった大きな切り石や柱をくみあわせるためには、もうひとり別の巨人がいなければならぬ。そうしたらりっぱな神殿ができあがったことだろう。ところがクリスチァン・ヴォルフはおそろしくずんぐりとした体格の男であって、こうした巨大な建築材料のごく一部しかあつかえないで、それでもって超越神論のみじめな仮の神殿をつくっただけだ。ヴォルフの頭はまとめるよりは、ならべたてるにむいていたので、何でもそろっている形式だけがまとまった学説だと思いこんでしまった。それでヴォルフはいわば仕切細工でまんぞくした。つまりいろんな仕切りが申し分なくきちんと、すきまなくりっぱにならんでいて、それぞれの仕切りにれっきとしたレッテルがはってあったら、それでもうけっこうだというわけである。だから、ヴォルフは「哲学百科全書」をかいてくれたのである。デカルトの孫にあたるヴォルフが、このおじいさんの数学的証明という形式をうけついだのは自明のことである。私はスピノザ哲学についてのべたときにすでに、この数学的形式を非難しておいた。はたしてこの数学的形式はヴォルフによってひどい不幸をひきおこした。この数学的形式はヴォルフの弟子たちの代になるとひどく退化して、どうにもがまんのできぬ図式主義、何でもかんでも数学的に論証するというこっけいな気ちがい沙汰になってしまった。いわゆるヴォルフの独断論が成立したのである。よりふかく探求するということはさっぱりなくなってしまって、そのかわりに何でもかんでもはっきりあらわしたいというたいくつな努力がはじまった。ヴォルフ哲学はだんだん水気をましてきて、ついには大洪水となりドイツじゅうにひろがった。この大洪水のあとかたは今もなおみとめられる。今日のドイツの最高学府でもまだあちらこちらにヴォルフ学派のふるびた化石がのこっている。

 クリスチァン・ヴォルフは一六七九年にブレスラウでうまれ一七五四年にハーレで死んだ。ヴォルフは五十年以上もドイツの思想界を支配しつづけた。ヴォルフと当時の神学者たちとの関係についてはとくに述べなければならない。そうしてルターのはじめたドイツ新教の運命についての私の報告の不足な点をおぎなうことにしよう。

 ドイツ新教内部の神学上の論争 三十年戦役後のドイツ新教内部の神学者のあらそいほどややこしいゲームはキリスト教会史にもほかには見あたらない。コンスタンチノープルの東方教会でなされたあのこうるさいけんかだけがまずこれと比べられるだろう。けれどもあの東方教会のけんかはこのドイツ新教内のゲームほどたいくつではなかった。というのはそのうしろには大した政治的な宮廷の陰謀がかくれていたからである。ところが、このドイツ新教内部のなぐり合いは、大てい度量のせまい学士やえせ学者の屁理屈から起ったのである。大学ことにチュービンゲン、ウィッテンベルク、ライプチヒ、ハーレの大学がこの神学論争の舞台となった。中世をつうじてカトリック教のきものをきて戦いつづけてきたあのふたつの党派、プラトン党とアリストテレス党とがこんどはドイツ新教というきものにきかえて、やはりもとどおりいがみあっていた。それは私がさきにのべた敬虔主義者と正統派である。私はさきに敬虔主義者を「空想力のとぼしい神秘主義者」、正統派を「知力のとぼしい教義学者」とよんでおいた。

 敬虔主義者シュペンネル ヨハネス・シュペンネルがドイツ新教のスコッツス・エリーゲナとなった。スコッツス・エリーゲナがディオニシウス・アレオパギータの荒唐無稽の著書をラテン語にほん訳してカトリック的神秘主義をきそづけたようにヨハネス・シュペンネルは自分の説教集「敬虔座談集」によって新教の敬虔主義をきそづけた。おそらくこの説教集の名まえによってシュペンネル一味の者は敬虔主義者とよばれるようになったのだろう。シュペンネルは信心ぶかい男であった。尊敬の意をこめて思いださるべき人物である。ベルリンの敬虔主義者フランツ・ホルン氏がこのシュペンネルのりっぱな伝記をかいている。シュペンネルは一生涯、キリスト教の根本思想のためにたえず身をささげてきた。彼はこの点で同時代の人びとよりはるかにまさっている。シュペンネルはりっぱな行いをせよ、信心ぶかくあれと人びとにはげしくすすめた。言葉よりはむしろ心をもってする説教者であった。その説教ぶりは当時としてはほむべきものであった。というのは、さきにあげた各地の大学で教えられていた神学というのは、いきぐるしい教義論かあらさがしの論争にかぎられていて、聖書の解釈とかキリスト教会史というようなことはまったく度外視されていたからである。

 ハーレの敬虔主義者 シュペンネルの弟子のヘルマン・フランケという人がライプチヒ大学で先生の手本にならって、先生の思想によって講義をはじめた。フランケはその講義をドイツ語でやった。これはわれわれがいつも紹介してはほめたたえている手柄である。ところがフランケの講義の評判があまりによすぎたので、仲間の教授らからそねまれることになった。そのためにあわれな敬虔主義者フランケは一生つらい思いをしなければならなくなった。フランケはよぎなくライプチヒ大学の教壇からしりぞいて、ハーレへうつり、そこで行動と言葉とでキリスト教を説いた。フランケはハーレではいつまでも思い出される。というのは彼はハーレの孤児院をはじめて作ったからだ。ハーレ大学は今や敬虔主義者でいっぱいになった。そのハーレの敬虔主義者は「孤児院党」とよばれている。ここでついでに述べておくが、この「孤児院党」は今日でもハーレにのこっている。ハーレは今もなお、ドイツの敬虔主義者のあつまる「こじき小屋」になっている。このハーレの敬虔主義者らがドイツ新教の合理主義者とつい二、三年まえにけんかをして、ドイツじゅうが臭くてたまらんようなみにくいさわぎをひきおこした。そうしたさわぎのうわささえ聞いたことのない君たちフランス人はしあわせだ! ドイツ新教の信心ぶかい魚売り女が口ぎたなくどなりあうあのルター派のデマ新聞があることさえも君たちは知らないのだ。フランス人の君たちはしあわせだ! ドイツ新教の牧師らがどんなにいじわるく、どんなにこせこせと、どんなにいやらしくたがいにそしりあうものかさっぱり御存知ないんだから。君たちも知っておられるように私はカトリックの信者ではない。げんざいの私の宗教的信念にはカトリック教の教義はもはやほろびているが、ドイツ新教の精神はまだ生きのこっている。つまり私はまだドイツ新教に加担している。けれども私は正直に白状するが、いまさき述べた見ぐるしい喧嘩のときにベルリンの「新教教会新聞」にあらわれたような、ああしたあさましい態度はローマ法王党の年報ではまだ一度も見たことがない。ドイツ新教の正統派や敬虔主義者がにくまれものの合理主義者にたいしてやったあのキリスト教的な偉業とくらべて見ると、おく病きわまる修道僧のわるだくみやこのうえもなくこせついた僧院のくわだても、まだまだ上品な、かわいいもんだ。こうした折にあらわれるドイツ人のにくしみは君たちフランス人にはわからない。とにかくドイツ人は一般的に、ローマン語系のみんぞくよりもしう念ぶかいのである。

 ドイツ人のにくしみは観念論的だ これはつまり、ドイツ人はにくむときにも観念論的であるからだ。われわれドイツ人は君たちフランス人のように外界の物のために、たとえばみえをはる心がきずつけられたとか、あてこすりの短い詩をもらったとか、名刺の交換がしてもらえなかったとかいってにくみあうのではない。いや、われわれドイツ人は敵のもっともおくそこにある、もっとも根本的なもの、つまり敵の思想をにくむのである。君たちフランス人はにくむときも愛するときにも、うわっつらだけであっさりしている。ところがわれわれドイツ人はしつこく、あくまでもにくみつづける。われわれドイツ人は正直すぎて不器用すぎるために、即座のいじわるぐらいで仕返しするわけにはいかない。だから自分のいきのねのとまるまでにくみつづけるのだ。

 ごくさい近のこと、あるフランス婦人が目をみはって、うたがいぶかくおずおずと私を見つめながらこういったものだ。「ええ、わたしはドイツ人のおちつきがどんなもんだか知ってますわ。ドイツ人のみなさんはおなじひとつの言葉を『ゆるす』という意味にも『毒をもる』という意味にもおつかいになるんですもの。」いや、まったくそのとおり! ドイツ語のフェルゲーベンつまり「あたえる」という単語にはこのふたつの意味があるのである。

 ドイツ新教正統派とヴォルフ哲学 ところで私の思いちがいでなければ、ハーレに根をはった敬虔主義者と戦うためにヴォルフ哲学の加勢を求めたのはハーレの新教正統派であった。宗教は人間を異端者としてやき殺すことができなくなると、こんどは人間にこじきのように助力をもとめるものである。けれども人間がこのこじきの宗教にいくらめぐんでやっても、何のたしにもならぬ。ヴォルフはこのあわれなこじきに数学的、論証的な哲学のきものをほんとうにやさしく着せてやった。けれどもこのきものは宗教というこじきのからだにあわなかった。宗教はこのきものをきると、いっそうきゅうくつに感じて、きゅうくつなので大そうおかしなようすをした。この哲学というきものは、ぬい目のよわいところからあちこちでほころびはじめた。ことに宗教の恥部である原罪がそのほころびたぬい目からきわめてろこつにとびだしてきた。この恥部をかくすには論理ではもうまにあわぬ。人類は原罪を負うているというキリストやルターの思想と、この世はきわめてりっぱだというライプニッツやヴォルフの楽天主義とは一致するはずがない。それゆえにこの楽天主義をフランス人が愚弄したのはドイツの神学者にはまんざらいやなことではなかった。ヴォルテールの機智が、むきだしになったこの原罪という恥部をかくすに役立つことになった。けれどもドイツのライプニッツ派はいとしい教え子の楽天主義が殺されたので大そうかなしんで、なぐさめになるような、楽天主義に似た理論はないだろうかとながらくさがしたあげくに、「存在するものはすべて理性にかなっている」というヘーゲルの言葉を多少のつぐないと思ったのであった。

 宗教は自己弁護をはじめたらおしまいだ さて宗教が哲学に助けを求めたそのしゅん間から、宗教の滅亡はさけられないものとなる。宗教は自分を弁護しようとして、おしゃべりをつづけるうちに、しだいに破滅のふちに沈んでいく。宗教はすべての専制主義とおなじように自分の正しさを弁明する必要はないのだ。プロメテウスをいわおにしばりつけているのは、もの云わぬ神の力である。アイスキュロスはこの神の力の化身にひとこともしゃべらさない。宗教はだまっていなければならぬ。宗教が理くつをならべた教義問答書を印刷させたり、専制君主が政府の御用新聞を発行させたりしはじめたら、もうおしまいだ。けれども、それこそまさにわれわれ人民の勝利だ。われわれは敵にしゃべらなければおれないようにした。敵はわれわれ人民に云いわけしなければならなくなったのだ。

 もちろん政治上の専制主義も宗教上の専制主義も自分をまもるために大そう強力な言論機関をそなえてきたということは否定できない。けれども、それくらいのことでびくついてはならぬ。人民とともにある生きた言葉は小人の力でもかるがるとはこべるけれども、人民と縁のない死んだ言葉は巨人にもおもすぎてまともに起しておけないのだから。

 ドイツでの合理主義的神学の発達 さて私がすでに話したように、宗教が哲学に助けを求めるようになってからは、ドイツの学者たちは宗教にヴォルフ哲学のあたらしいきものをきせるほかにも、宗教についてかぎりなく多くの実験をやった。宗教を若がえらせようとした。そしてメデーアがエーソン王を若がえらせたときのような処置をした。つまり宗教の静脈を切って、宗教のうちにある「迷信」という血をのこらず徐々にしぼり出してしまったのである。こんなたとえを用いないで云うならば、キリスト教のうちにある歴史的な要素を全部とり去ってしまって、精神的な部分だけを守ろうという試みがなされたのである。そのためにキリスト教はまったくの超越神論になってしまった。イエス・キリストは神とともにこの世を支配する君主ではなくなって、いわば神の陪臣になった。そして個人としてのみほめたたえられ、うやまわれるようになった。キリストの有徳の性質はひとかたならずほめられた。キリストはどんなけなげな人間だったろうか! とあくことなくほめそやされた。けれども、キリストのあらわした奇蹟は物理学的に説明されるか、あるいはなるべく取りあげられないようになった。二、三の神学者は云った。「奇蹟はあの迷信ぶかい時代には必要だった。かしこい人は真理を告知するために、いわば広告の手段として奇蹟をつかったのだ。」キリスト教から歴史的な要素をいっさい切りとってしまったこれらの神学者は合理主義者とよばれている。そして新教正統派も敬虔主義者もひとしくこの合理主義者にたいしていきりたって反対した。それ以来正統派と敬虔主義者とははげしくいがみあうことは少なくなって、たびたび同盟した。この両派はたがいの愛情からでなくて、にくしみから、合理主義者にたいする共通のにくしみからむすびついたのである。

 ドイツ新教のこの合理主義的神学はおちついたセムラーからはじまった。このセムラーという男を君たちフランス人はごぞんじあるまい。そして頭のいいテルラーによっておそろしく発達した。このテルラーという男も君たちはごぞんじあるまい。そしてついに、あさはかなバールトによって頂点にまで達した。このバールトという人物は知っておかれても、ごそんにはなりますまい。この合理主義を発達させるもっとも強い刺戟はベルリンからあたえられた。つまりフリートリヒ大王と出版屋のニコライの支配していたベルリンからである。

 合理主義者フリートリヒ大王 前者つまり唯物論の化身ともいうべきフリートリヒ大王については君たちフランス人は十分にごぞんじだろう。君たちは知っておられるはずだ。この大王がフランス語の詩をつくり、大そううまく笛を吹き、ロスバハの戦いに勝ち、かぎたばこをたくさん吸い、大砲以外のものは信じなかったということを。君たちのあいだにはきっと、ポツダムの王宮をおとずれて、そこの城番をしている老廃兵にフランス語の長編小説がぎっしりとつまっている書庫を案内してもらった人もいるだろう。そのフランス語の長編小説をフリートリヒは皇太子のときに教会にまでもちこんでこっそりよんでいた。けれどもきびしい父王にはルター著の讃美歌集をよんでいると思いこませるために、フリートリヒはその小説本にくろいモロッコ皮の表紙をつけさせたのである。君たちフランス人はこの賢人の国王を知っている。君たちはこの国王を北方のソロモン王とよんでいる。フランスはこの北方のソロモン王には黄金の国オフルと思われた。この王はフランスから詩人や哲学者をむかえいれて、それらの詩人や哲学者らにかたよった大した愛情をいだいていた。それはちょうど南方のソロモン王が列王紀略上・第十章にかいてあるように、友のヒラムの手を経て黄金の国オフルから黄金、象牙、詩人、哲学者などをいっぱいのせた船をむかえいれたのとまったくおなじである。フリートリヒ大王は外国の才人たちを大そうかたよって愛したために、自国のドイツの思想界にあまりにつよいえいきょうをおよぼすことができなくなった。フリートリヒ大王がドイツ文学をひどくあなどったことを思うと、われわれ子孫のものも腹だたしくなる。ドイツの文学者のうちでこの大王の愛顧をうけたのはゲールレルト老人ただひとりであった。この大王がゲールレルトと話したときに云った言葉はめずらしいものである。

 啓もう主義者ニコライ フリートリヒ大王はわれわれドイツ人をあざけるばかりで、助けようとはしなかった。それだけに出版屋のニコライはいっそうわれわれを助けてくれた。ところがわれわれはそんなことはおかまいなしにこの出版屋をあざけるばかりである。このニコライという男は一生やすむことなく祖国の幸福のためにはたらき、何かよいことをおしすすめるとなると金も苦労もおしまなかった。けれどもこの男ほどざんこくに、ようしゃなく、めちゃくちゃにからかわれた男はドイツにこれまでにいないのである。後の世にうまれたわれわれはよく知っている。啓もう主義の味方であるこのニコライ老人は主要な点ではけっしてまちがってはいなかったということ。またこの老人をみそくそにあざけったのは大部分は開化に反対する論者、つまり我らの敵であったということを。けれども、われわれはこの男のことを思うと笑わずにはおられなくなる。ニコライ老人はフランスの唯物論者がフランスでなしとげたことをドイツでもやろうとした。つまりドイツ人民のあたまにのこっていた過去の遺物を根こそぎなくそうとしたのだ。これはほむべき準備工作だ。この仕事がしてないとてってい的な革命はやれないのだから、けれども、だめだ。この仕事はニコライ老人には荷がおもすぎた。むかしからの廃墟にはまだしっかりとそびえていた。ゆうれいがその廃墟から出てきてニコライ老人をあざわらった。するとこの老人はひどくいらいらして、めくらめっぽうそこらをなぐった。こうもりがこの老人の耳のあたりをかすめてとんで、りっぱに髪粉をふりかけたかつらにまきこまれでもしようものなら、見物人は大わらいというわけである。ときどきはこの老人は風車を巨人と見あやまっていどみかかるというようなこともやった。ところがほんものの巨人、たとえばヴォルフガング・ゲーテのような人物を時どきただの風車と見あやまって、いっそうこまったことになったのである。ニコライはゲーテの「ヴェルテル」をあてこすった小説を書いた。ゲーテのすべての意図を不細工きわまる仕方で見そこなっていたのである。けれどもこの場合にもニコライは主要な点ではやはり正しかった。ゲーテが「ヴェルテル」で本来いおうとしていることは、ニコライには分らなかったけれども、この「ヴェルテル」の社会にあたえるえいきょうはきわめて正しくつかんでいたのだ。女女しい熱狂とやくにたたぬ感傷とがこの小説からあらわれてきて、人間に必要な分別のある考え方と敵対するというのである。この点ではニコライはレッシングとまったく一致している。レッシングは「ヴェルテル」を批判してある友人に次のような手紙を出した。

 ゲーテの「ヴェルテル」についてのレッシングの批評 「こうした情熱的な作品が幸福よりもむしろ不幸をひきおこさないようにするためには、かんたんな冷静な結語をつけ加えねばならぬとは思わないかね。ヴェルテルがどうしてあんな奇妙な性格になってしまったか、またヴェルテルに似た素質の青年はあんな奇妙な性格にならないようにどう心がけたらいいかというようなことを、小説のおしまいにちょっとほのめかしておくのだ。ローマやギリシャの青年であんなにして、あんなことで自殺したものが一人でもあったろうか? いや、一人もなかった。古代の青年たちは恋の熱狂からはもっとちがった仕方でうまく身をまもった。ソクラテスの時代には『自然を越えたことまであえてさせようとする恋のほむら』は乙女にかぎって許されただけだ。つまらなくてしかも偉大な、下品でしかもりっぱなああしたかわり者がでてきたのは、キリスト教の教育がおこなわれるようになってからのことだ。キリスト教の教育は肉欲を大そう手ぎわよくたましいのひとつの美点に変えてしまうのだから。だからゲーテ君は、もう一章だけあの小説のおしまいにつけ加えるがいい。そしてその一章は皮肉であればあるほど、けっこうなわけだ。」

 ニコライはゲーテの「ヴェルテル」を改作した ニコライ君はほんとうにこのレッシングの指示にしたがって、書きかえられた「ヴェルテル」を発表した。その改作では主人公のヴェルテルはピストルで自殺しないで、にわとりの血まみれになるだけである。というのはあのピストルにはなまりの弾丸のかわりににわとりの血がこめてあるからだ。ヴェルテルは世間のわらいものになり、いきながらえて、シャルロッテと結婚し、つまりゲーテの原文よりもいっそう悲惨なことになるのである。

 ニコライの啓もう主義と文学との関係 ニコライが創刊し、ニコライとその与党が迷信やエスイット派や宮廷の下僕らと戦った雑誌の名は「ドイツ通俗文庫」といった。ところが迷信めがけて切りつけたほこ先が時どき不幸にも文学自身をきずつけたということは否定できない。たとえばニコライは、古代ドイツの民謡を偏愛するというそのころようやく盛になった傾向と戦った。この場合にもニコライの主張は根本的には正しかった。それらの民謡はあらゆる長所をそなえながら、啓もう時代にかならずしもふさわしからぬいろんな過去の思い出をもふくんでいたからである。中世の牧畜の古めかしい音調は人民の心をさそってまた過去の迷信の住むうまやへつれもどすかも知れなかった。ニコライはオデッシウスのように、まどわしの歌をきかせないために仲間の耳をふさごうとした。そうすればこの仲間の者は夜なきうぐいすの罪のない歌もきこえなくなるというようなことはニコライはかまわなかった。この実際的な男はげんざいの野原のすべての雑草をてってい的にかりとってしまうためには、草花もおかまいなしにねこそぎにしようとした。すると草花や夜なきうぐいすの一味が、おまけにまたこの一味にくみする美や優雅や機智や洒落までもいきりたってニコライにはむかってきた。そしてあわれなニコライはついにまけてしまった。

 未来のドイツと啓もう主義者ニコライ ところで今日のドイツでは事情がかわってきた。草花や夜なきうぐいすの一味、つまりドイツ文学は革命党と密接にむすびついている。未来は我らのものだ。勝利の日がはやくも明けそめている。いつかその勝利の朝がドイツ全土に照りはえるときに、われわれは故人のことも思いだすだろう。そのときにわれわれはきっと君のことも、理性のために難に殉じたあわれなニコライ老人のことも思いだすだろう。そのときにわれわれは君の骨をドイツの偉人廟へはこぼう。景気よく行列をして、管楽隊には、不景気な横笛なんかいれないことにする。ニコライよ、われわれは君の棺をきわめてりっぱな月桂冠でかざろう。そして、なるべく失笑しないようにつとめることにしよう。

 ニコライの時代のドイツ啓もう主義の学者 さて私はあの時代のドイツの哲学および宗教の状態を諸君に一おう理解してもらいたいのだから、あのころベルリンでニコライと多少とも協力して活動して、哲学者と通俗作家とのあいのこみたいになっていた思想家たちについてここでちょっと述べておきたい。これらの思想家は一定の思想体系はなくて、ただ一定の傾向だけをもっていた。その文体や、信奉する原理から見てこれらの思想家はイギリスのモラリストに似ている。つまり科学的に厳密な形式を用いないで書くし、道徳的な意識を自分の認識作用の唯一の根源と見なしているのである。これらの思想家の傾向はフランスの博愛主義者に見いだされる傾向とまったく同じである。つまり宗教上では合理主義者であり、政治的にはコスモポリタンであり、道徳的にはまず何よりも人間であり、自分にはきびしくて他人にはおおまかな気だかい、徳のたかい人間なのである。才能の点から云えば、メンデルスゾーン、ズルファー、アプト、モーリツ、ガルヴェ、エンゲル、ビースターなどがこれらのうちでもっともすぐれた人物としてあげられよう。このなかでもモーリツが私はいちばん好きだ。モーリツは経験心理学者として大した業績をのこしている。彼はけっこうすぎるほど素直な男であったが、そのよさは友だちにはほとんど分ってもらえなかった。モーリツの伝記はあの時代のもっとも重要な記念物のひとつである。けれどもメンデルスゾーンは、ドイツにいて自分とおなじユダヤ教を信じているイスラエル人たちの宗教改革者となった。つまりユダヤ教法典を信奉するという伝統を破って、モーゼの戒律そのものに帰るという立場を確立した。この男は同時代人からは「ドイツのソクラテス」とよばれて、その気だかい心ばえとたくましい精神力とのために尊敬の意をこめて仰がれていたが、もとはデッサウのユダヤ教会のまずしい寺男のむすこであった。メンデルスゾーンはこのように素性がいやしいうえに、おまけにせむしに生れついていた。人間は外形ではなく心の偉大さで評価さるべきだということを、おろかな群集にほんとうにはっきりとおしえるために神意はこの偉人をわざとせむしにしたのかも知れぬ。それとも神意はやさしい心づかいからせむしにしたのかも知れぬ。つまりこの賢人は自分がせむしであれば、おろかな群集のせむしにおとらぬいろんなみにくい姿もさけられぬわざわいとして、賢人らしくあきらめることができるからである。

 メンデルスゾーンはユダヤ教法典の権威を破壊した ルターがローマ法王をたおしたようにメンデルスゾーンはユダヤ教法典をたおした。しかもまったくおなじ仕方でたおした。つまり伝統を否定した。聖書こそ宗教の根源だと宣言し、聖書のもっとも重要な部分をほん訳したのである。このようにしてルターがカトリック教をうちくだいたようにメンデルスゾーンはユダヤ教法典をうちくだいてしまった。たしかにユダヤ教法典はユダヤ人のカトリック教であった。ユダヤ教法典は、子供くさいつまらんかざりをいっぱいつけてはいるが、天をつく大胆な巨大さで我らをおどろかすゴシック式の大寺院のようなものである。ユダヤ教法典は宗教法の神聖な組合せである。それらの法規は時にはきわめてくだらん、きわめて滑稽な些細なことにまでおよんでいるが、大そうたくみに上下に配列され、たがいに支えあい、助けあっておそろしく徹底した効果をあげて、ひどく強情な、巨大な、ひとつのまとまった全体となっている。

 ユダヤ教法典の歴史的意味 キリスト教のカトリック教がほろびたあとでは、ユダヤ人のカトリック教であるユダヤ教法典もほろびなければならなくなった。ユダヤ教法典はその意味をなくしてしまったからである。つまりユダヤ教法典はローマにたいする防壁としてのみユダヤ人に役立ってきた。ユダヤ人はこのユダヤ教法典のおかげで、むかし異教徒のローマ人にたいしておおしく対抗してきたように、キリスト教を信ずるローマ人にたいしてもおおしく対抗できたのである。いや、ユダヤ人は対抗しただけではなくて、ローマ人にうち勝った。死にかけているとき頭上に異教徒のローマ人から「ユダヤ人の王!」といういじわるい言葉を書きつけられたあのあわれなナザレの師イエス・キリスト――いばらの冠をかぶり、皮肉な王者の服をきて笑いものになった「ユダヤ人の王」イエス・キリストがついにはローマ人の神となった。ローマ人はこの「ユダヤ人の王」のまえにひざまずかねばならなくなった。ところで異教徒のローマがユダヤ人に征服されたように、キリスト教徒のローマもユダヤ人に征服されて、しかもユダヤ人に税金をはらわねばならなくなった。親愛なる読者よ。節季のころにラフイト町の第十五号ホテルへいって見たまえ。するとそのホテルのりっぱな車よせに一台の客馬車がのろのろときてとまって、ふとった男がその客馬車からおりるのを見るだろう。そのふとった男はホテルの階段をあがって、ある小部屋へはいっていく。その小部屋にはひとりのブロンドの髪のわかい男がかけている。その男はしかし見せかけよりも年よっていて、その上品な、とのさまらしい冷淡なたいどには、世界じゅうの金をのこらずポケットにおさめているような手がたい、しっかりとした、ものに動ぜぬところがある。いや、じっさいこの男は世界じゅうの金をのこらずポケットにおさめているのだ。この男はジェームス・ド・ロスチャイルド君だ。そしてあの客馬車からおりたふとった男はローマ法王睨下の使者グリムバルディ閣下であって、カトリック教会がユダヤ人ロスチャイルドから借りていた金の利子を、つまりローマからの税金を法王の名でおさめにきたところである。

 こうなったとき、ユダヤ教法典はもはやもう無用だ。

 メンデルスゾーンは超越神論者である モーゼス・メンデルスゾーンがこのユダヤ人のカトリック教つまりユダヤ教法典をすくなくともドイツでたおしてしまったのは、それゆえに大いにほめらるべきである。余計なものは有害だから、モーゼス・メンデルスゾーンは伝統を否定した。けれどもモーゼの儀式ばった戒律を宗教上の義務として維持しようとした。これはメンデルスゾーンがおくびょうなためか、それともずるかったためだろうか? 先祖のユダヤ人がもっともとおといものとしてつかえてきて、殉教者の血と涙とを多量にささげてきたユダヤ教そのものをみずから破壊しなかったのは、祖先への悲しい追慕の念のためなのだろうか? いや、私はこれをおくびょうや、ずるさや、追慕の念のためとは思わない。物質界の王者も思想界の王者も肉親の情などをかまっているはずはない。思想界の王者はやさしい思いやりなどに負けてはならんのだ。それゆえに私はむしろこう思う。モーゼス・メンデルスゾーンはモーゼの戒律そのものを、超越神論のいわばさいごのとりでとなる制度とみなしたのだろうと。というのは超越神論こそメンデルスゾーンの衷心からの信仰であり、心のそこからの確信であったからだ。友人のレッシングが死んで、レッシングはスピノザ主義者だと告発されたときに、メンデルスゾーンはせっぱつまったいらだたしさでレッシングを弁護した。そしてそのとき立腹のあまりについに死んでしまった。

 レッシングはドイツの二人目の解放者である 私は本書でこれまでにすでに二度もその名をあげた。その名を口にすると、ドイツ人の胸のうちにはかならず多少ともつよいこだまが起るのである。とにかくルター以後のドイツはゴットホルト・エフライム・レッシングほど偉大なりっぱな人物はうみださなかった。ルターとレッシングとはわれわれドイツ人のほこりでありよろこびである。現代のような陰気な時代にわれわれがこの二人の立像を見あげて、なぐさめを求めると、この立像はうなずいて、すばらしい約束をしてくれる。そうだ、ルターがはじめて、レッシングがつづけた仕事をドイツで成しとげる人が、ドイツが切に求めている三人目の解放者がきっとあらわれてくると。三人目の解放者! そうだ、私ははやくも「朝やけの雲をつく太陽」のように皇帝の緋のマントの下からきらめきでるその三人目の解放者の黄金のよろいが見えるのだ。

 レッシングは論争の天才であった ルターと同じようにレッシングの仕事も、あるきまったことをやったというだけではなくて、ドイツ人民を心のそこからふるい立たせ、批判と論争とで有益な精神運動をひきおこしたことである。レッシングは彼の時代への生きた批判者であった。レッシングの一生は論争そのものであった。その批判は宗教、科学、芸術など思想と感情とのもっともひろい範囲におよんだ。その論争はかならず論敵をやぶって、勝つたびごとにいっそう力をました。レッシングはみずから告白しているように、自分の精神的向上のために闘争を必要とした。彼はあの寓話に出てくるノルマン人そっくりだ。つまり決闘で殺したいろんな相手の才能や知識や力をうけついで、この手でついにあらゆる特長や長所をそなえるにいたるのである。こうしたけんか好きの闘士がしずかなドイツで、今日よりも安息日のようにいっそうしずかであったそのころのドイツで少なからぬさわぎをひきおこしたのはもっともなことである。大ていの人はレッシングの思いきった論文にめんくらった。けれども、まさにこの大胆さこそレッシングには大そう役だった。というのは大胆こそ、論争でも革命でも、そしてまた恋愛でも成功の秘訣だからである。レッシングの剣を見てふるえぬ者はなかった。その剣にかかっては、どんな首もたすからなかった。そのうえにレッシングはときどき横着にも首をばっさりと切りおとしてから、いじわるくその首を地面からひろいあげ、その首のなかみがからっぽであることを見物人に示したのである。剣のとどかぬ遠方にいる敵は「警句」という毒矢でいころした。レッシングの味方は、その矢につけてあるいろんなはねを見て感心したし、レッシングの敵はその矢のさきのするどさを身にしみて感じた。レッシングの警句は、このフランスで諸君がごぞんじの「愉快」とか「陽気」とか景気のいい「頓智」とかいうようなものではなかった。レッシングの警句は自分の影を追って走るかわいいフランスの猟犬ではなくてはつかねずみをしめころすまえにさんざんもてあそぶ大きなドイツの猫に似ている。

 論争はわがレッシングのたのしみであった。それゆえにレッシングは敵がとるに足る相手かどうかということはあまり考えなかった。それでレッシングはまさにこの論争で、世間から当然忘れられるはずの多くの名前を不朽のものにしてやった。レッシングは若干のつまらん文士をきわめて気のきいた嘲笑やきわめてりっぱなユーモアでいわばつつんでしまった。それでこれらの三もん文士はこはくのなかにおさまっている昆虫の死体のようにレッシングの著作のなかに永久におさまることになった。レッシングの敵はころされたので不滅となった。レッシングからあれほどまでに嘲笑や警句をあびせかけられなかったら、クロッツなどは今ではだれにも知られないはずである。レッシングはこの古代研究家に大石のかたまりをなげつけておしつぶしてしまったが、その大石のかたまりが今ではこのあわれな古代研究家の不滅の記念碑となっている。

 レッシングの真理への愛 めずらしいことには、ドイツでいちばん機智にとんでいたレッシングこそまたいちばんの正直者であったのである。レッシングの真理への愛におよぶものはない。如才ない男がいつもやるようにうそさえつけば真理の勝利が早く得られるというような場合でも、レッシングはけっしてうそをゆるさなかった。レッシングは真理のためにはどんなことでもやったが、うそだけはつかなかった。レッシングはあるときこう云った。「真理を口べにやおしろいでぬり立てて売りつけようとする奴は真理のとりもち役とは云えるだろうが、けっして真理の愛人ではない。」

 レッシングの文体 「文は人なり」というビュッフォンの名言はレッシングにこそもっともよくあてはまる。レッシングの文体は、彼の性格そのままである。つまり正直で、しっかりしていて、かざり気がなく、りっぱで、うちにひそむ力によっておごそかである。その文体はローマの建築様式そっくりだ。つまり、きわめて素朴で、きわめて堅固なのである。文章が切り石のようにつみかさなっている。切り石のばあいには重力の法則が、この文章のばあいには論理的な推論が目に見えぬ接合剤になっている。だからレッシングの散文には、われわれが完全文にいわばセメントとして使う助詞や熟語はほとんど見いだされない。まして、君たちフランス人が「美辞麗句」とよんでいるあの円柱の代用品の女性の像の柱などはもちろんのことだ。

 天才としてのレッシングの不幸 レッシングのような男がけっして幸せになれなかったというのは君たちもすぐわかるであろう。レッシングはたとえ真理を愛しなかったとしても、またいたるところですすんで真理のために戦わなかったとしても、やはり不幸であったにちがいない。レッシングは天才であったからである。ちかごろある詩人がため息をつきながらこう云ったことがある。「君にすべてをゆるそう。君は金持であってもいいし、名門の出であってもいいし、りっぱなようすをしていてもいいし、才能をそなえていてもいい。けれども君は天才であることだけは許されないよ。」そうだ! そして天才はたとえほかの人からいじわるくあつかわれないとしても、自分自身のうちに不幸をもたらす敵をもっている。だから、天才の伝記はいつも殉教者の伝説である。天才はたとえば偉大なる人類のために苦しまないとしても、自分自身が偉大であるために、自分自身のあり方があまりに偉大であるために、自分は凡俗を超越していて、周囲の愚劣な見せかけ、滑稽な下品さに不快を感じるために苦しむだろう。この不快の念がこうじてくると天才は自然に脱線して、たとえば芝居小屋へいったり、ばくちをうちにいくようになる。あわれなレッシングもこうしたことになった。

 けれどもレッシングは芝居小屋へいったり、ばくちをうっただけのことで、そのうえわる口を云われるわけはない。レッシングの伝記をよめばわかることだが、この天才にはうつくしい喜劇女優の方がハプスブルク市の牧師らよりはおもしろかったし、だまっているトランプのカードの方がしゃべりまくるヴォルフ派の哲学者らよりもたのしかったのである。

 レッシングの家庭的不幸 レッシングの伝記をよんで、この天才が運命の女神からなにひとつ悦びをあたえられないで、家族にやさしくかこまれてまい日のはげしい戦いのつかれを休めることさえもゆるされなかったのを知ると胸もさかれる思いがする。運命の女神はただ一度だけレッシングにほほえみかけたようだ。つまりレッシングに愛する妻とひとりの子供とをあたえたのだ。――けれどもこの幸福は、とびすぎる鳥のつばさを金色にそめる日の光にも似て、すぐさま消えてしまった。妻は産後の肥立ちがわるくて死んだし、子供もうまれるとまもなく死んだ。この死んだ子供についてレッシングはある友人への手紙で、すごい洒落をとばしている。「ぼくの悦ははかないものだった。あのむすこは死なせたくなかった。あれはとてもかしこい子だったからね。とてもかしこい? レッシングのやつはおやじになったとたんに親ばかになりやがった! などとおもわないでくれ。ぼくは本気で云ってるんだよ。あのむすこはすぐさまあやしいと感ずいたので、折をねらっていちはやく、このあやしい世の中から逃げだしたのだ。どうだい? なんとかしこいむすこじゃないか? ぼくも人なみにしあわせになりたいとねがっていたが、まずいことになっちまったよ。」

 レッシングの思想的孤立 レッシングが友人にもけっして告白しなかったひとつの不幸があった。それは彼がおそろしく孤独であり、思想界でまったく孤立していたということである。同時代の二、三の人はレッシングを愛した。けれども理解した者はひとりもいなかった。レッシングのもっともよき友であったモーゼス・メンデルスゾーンは、レッシングがスピノザ主義者だと訴えられたときに、熱意をこめてレッシングを弁護した。けれども熱意とか弁護とかいうのは余計なそしてこっけいなものである。今は墓場におさまっているモーゼス老人よ、安心したまえ。君のよき友レッシングはなるほどあのおそろしい誤った考え方、いたましい不幸、つまりスピノザ哲学に近づきかけていた。けれども天なる父、最高の神がちょうどよい折にレッシングを死なして邪道から救ってくださったから。安心したまえ。モーゼス君。君のよき友レッシングは中傷者の云うようなスピノザ主義者ではなかった。レッシングは君自身やニコライやテルラーや「ドイツ通俗文庫」とおなじようにりっぱな超越神論者として死んだのだから。

 レッシングの思想史的位置 レッシングは第二の聖書、つまり新約聖書の内容から第三の聖書が成立することを示した預言者にすぎない。私はさきに云った。レッシングはルターの後継者であると。私はここではレッシングをルターの後継者として論じたい。ドイツ芸術にたいしてレッシングの活動がどんな意味をもっていたかということは、後に述べる機会があろう。ドイツ芸術についてレッシングは批判するだけでなく、手本になるような作品も作って見せて有益な改革をやった。レッシングの活動のうちでこの芸術の方面がふつうもっとも多く取りあげられ、くわしく研究されている。けれども私はまったく別な方面からレッシングを考察したい。レッシングのやった哲学や神学上の論争の方がその戯曲論や戯曲よりも私には重要なのである。もっともレッシングの戯曲は彼のすべての著作と同じように社会的な意味を持っている。「賢者ナータン」というレッシングの戯曲は根本的に見て、りっぱな喜劇であるばかりでなくて、超越神論そのものを弁護する哲学的、神学的な論文でもある。レッシングには芸術もまた自分の意見を発表する道具であった。説教壇や学校の教壇から追放されると、こんどは芝居小屋のぶたいにとびあがって、まえよりももっとはっきりと意見を述べ、またまえよりももっと多くの聞き手を得たのである。

 レッシングはルターの後継者である 私は云う。レッシングはルターの後継者であると。マルチン・ルターはわれわれドイツ人をカトリック教の伝統から解放して、聖書をキリスト教の唯一の根源とした。ところがルター以後に、私がさきに述べたようにしつこい字句の解釈がはじまった。ルター以前にはカトリック教の伝統が専制君主であったが、こんどは「聖書の字句」が専制君主になってしまった。さて、われわれドイツ人をこの「字句」という専制君主から解放しようともっとも努めたのがレッシングであった。カトリック教の伝統と戦ったのがルターひとりでなかったと同じように、聖書の字句と戦ったのもレッシングひとりではなかった。けれどもレッシングがいちばんはげしく戦ったのである。この戦いでレッシングのおたけびがいちばんすさまじかった。この戦いでレッシングがもっともよろこびいさんで剣をふるった。その剣はきらめいたかと思うと敵をきりたおした。けれども、この戦いでレッシングが陰険な敵軍からいちばんひどく攻め立てられた。ひどく攻めたてられてこまったときに、レッシングはこうさけんでいる。

 「『おお、知らぬがほとけだ!』フスは異端者として焼きころされるときにこう叫んだ。けれども私はまだ、こうさけんだすなおなフスが、こう叫ぶより仕方がなくなったあのどんづまりまではきていない。そのまえにまず私の意見をきいてもらいたい。私の意見を聞いて判断できるだけの人物に、まず聞いて判断してもらいたい。」

 「ああ、あなたなら判断できましょう。あなたがぜひ私の裁判官になってください。世間から誤解されている偉人、マルチン・ルター先生よ。私はあなたにおねがいしたい。あなたのスリッパを握って、あなたの切りひらいてくださった道をわめきたてながら平気でのらくら進んでいくあのいしあたまの連中が、いちばんひどくあなたを誤解しています。――ルター先生、あなたはカトリック教の伝統というくびきからわれわれドイツ人を解放してくださった。さて聖書の字句というこのいっそうやっかいなくびきからわれわれドイツ人を解放してくれるのは誰でしょうか? あなたがもし今生きておられたら教えてくださるような、イエス・キリスト自身がおしえるようなほんとうのキリスト教をついにわれわれにあたえてくれるのは誰でしょうか?」

 レッシングとキリスト教 つまりレッシングの云うには、「字句の解釈」というのがキリスト教のかぶっているさいごの皮だ。この皮をとってしまえば、はじめてキリスト教の本質があらわれるのである。ところでキリスト教の本質とは、ヴォルフ哲学が論証しようとくわだて、博愛主義者が気分的に感じ、メンデルスゾーンがモーゼの戒律として見いだし、フリーメーソンがうたい、詩人が口ずさみ、そのころのドイツであらゆる形で通用していたものである。つまり超越神論そのものである。

 ドイツに哲学革命はじまる レッシングは一七八一年にブラウンシュヴァイクで、世間から誤解され、にくまれ、ののしられて死んだ。そのおなじ年にケーニヒスベルクでイマヌエル・カントの「純粋理性批判」があらわれた。この本は妙な事情で一七八〇年代のおわりにおくれてようやく世に知られるようになった。この本でドイツの思想上の革命がはじまった。このドイツの思想革命はフランスの政治革命とふしぎなほど似ていて、深く考える者には当然、フランスの政治革命におとらぬほど重要と思われるのである。このふたつの革命はおなじ形で展開し、きわめてめずらしく似ている。ライン河の左岸のフランスと右岸のドイツとでひとしく過去のきずなはたち切られ、伝統をうやまう心は一さいすてられることになった。フランスではそれぞれの権利が正当かどうか吟味されたが、ドイツではそれぞれの思想が吟味されることになった。フランスではこれまでの社会制度のかなめ石であった王政がたおされたが、ドイツではこれまでの思想支配のかなめ石であった超越神論がたおされたのである。

 超越神論の発達してきた経路 フランスのルイ一六世のようにドイツの超越神論が断頭台へ上った、大詰については第三巻で述べることにする。いうにいえないおそろしい気持、神をうやまうふしぎな気持がわきおこってきて、今日はこのうえ書きつづけることはできない。私の胸はおそろしい同情であふれている。いま死のかくごをしているのは生いたる天帝エホーバーである。われわれはエホーバーを赤ん坊のときからよく知っている。エホーバーはエジプトで気だかい子牛や、わにや、とおとい玉ねぎや、べにづるや、ねこにまじってそだてあげられた。それからエホーバーはこれらの子供時代のあそび仲間や、ふるさとのナイルの谷のオベリスクやスフィンクスなどに別れをつげて、パレスチナへいって、そこのまずしい遊牧民の微力な神、つまり王になって、自分の神殿つまり王宮に住むようになった。そののちにエホーバーはアッシリヤやバビロンの文明に近づいて、あまりにも人間くさい感情をすて去った。つまりろこつに怒ったり仕返ししたりはしなくなり、とにかくどんなつまらんことにでもいきなりどなりつけるというようなことだけはしなくなったのだ。それからエホーバーは世界の首府のローマへ出かけて、そこで民族的偏見をさっぱりすててしまって、「天国ではどの民族も平等である」と宣言し、こうした美辞麗句をならべてギリシャ人の神ジュピターにたいする反対派をつくりあげ、ながらく策動をつづけて、ついに支配者となり、カピトールの城からローマ市と全世界とをおさめることになった。そののちにエホーバーはいよいよたましいそのものになり、やさしくすすり泣いたり、やさしいおやじになったり、人類の友、世界の恩人、博愛家などになったりした。――けれども、どんなにして見てももうだめだ!

 ほら、鐘がなる! ひざまづけ! ほろびいく超越神にさいごの晩餐をささげるときだ。




 
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